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「後山の地蔵さん」の花火の筒が展示されています。@ 藤の瀬会館 [勝手に応援団]

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読んで欲しいので、ここに引用します。

 昔の人から今の人に語り継がれ、今の人はきっと未来に語り継ぐであろう。
面と向かってその事について語ることはあまりなく、寄り合いの合間に、また、お日待ちの席での酒のつまみに、ふとした事から話題にあがったりし語り繋がって来たように思います。嘘とも本当とも判らぬまま年寄り衆の昔話に耳を傾けることも何度もありました。
 紺屋村では時々「花火」の話に花が咲くことがありました。後山の地蔵さんのせどっかあに(後ろ側に)お諏訪さんがあり(現在は萩間山根 佐野静さんの茶畑)、そこへの献上花火として上げたこと。花火は村の衆で作った話、打ち上げ場所は瀬戸川 馬洗渕付近、ただ残念なことに誰もその花火を「馬洗い渕」辺りで見た、また見たと言う話を聞いたことも記憶には残っていないようでした。そんな話には確たる文献もなく何の証拠もないが、紺屋村の後ろ山に「後山の地蔵さん」そこには木の花火打ち上げ用の筒が2本、現在も保存されています。ちなみに紺屋「後山の地蔵尊」(いぼ取り地蔵)は毎年2回の小さなお祭りも行っています。
 筒は3寸用、4寸用の2本、製作途中のものか、また「たが」が外れて半分だけ残ったものか分からないが半分のものと3点が保存されています。使われている木は「松」(杉山大工見立て)で二つに割り中心をくり抜き、それを合わせて幾つもの竹の箍(たが)で開かないように固定してある。(箍は傷んだものもあった為 瀧下定男さんが修復した)。
 当時は打ち上げる「玉」も村内で作ったようでした。語り継がれた玉の様子は球体でなく筒状(円柱形)の形だったそうです。竹筒を利用したとも聞きました(大砲の弾を想像した)。その為か、突然右に曲がったり左に曲がったりしたそうです。この筒がいつ頃、誰の手によって作られたものかは全く分かりません。
 そんな中若干の資料も見つかって来ました。
明治時代の「日記帳」、軍人手帳に記録されていた花火を作る為の火薬の作り方、火薬を作る為の材料、明治時代と思われる新聞が使われた「張子」、火薬原料を細かな粉にした「薬研」などが見つかりましたので木製の打ち上げ筒と合わせて資料を展示する事といたしました。

瀬戸谷村史「瀬戸谷の歴史」より(P−281)
 明治40年に本郷各所にあった神社7社を合併し「本郷神社」とした。同時にそれまで紺屋で「諏訪神社」宵祭りとして打ち上げていた花火が「瀬戸の花火」として引き継がれていった。

今年 昭和9年からの本郷神社 奉納「煙火目録」が保管されていましたので、同じく展示いたします

紺屋組

3寸用
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4寸用
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半分のもの
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「瀬戸の花火」のポスター
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展示物も興味深い。
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薬研と火薬?
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張子と火薬
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張子
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日記帳
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軍人手帳
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煙火目録
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本郷神社提灯祭り
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これらが展示されているのは、
藤枝市本郷の「藤の瀬会館」ロビーです。
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いつまで展示しているかは、未定だそうです。
興味を持たれた方は、お早めにお出かけください。
昭彦さん、道章さん、ありがとうございます。
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