2018.1114(水)焼津市花沢の「法華寺」の本堂改修工事の見学に伺いました。 [ものづくりびと]
2018年11月14日(水)
焼津市花沢地区の「ハイキングコース案内図」です。
この日は観光駐車場に車を停めて、「法華寺」までハイキング?
訪ねたのは、「法華寺」です。
左手にあるのが、仁王門、右手前にあるのは、保存工作小屋、
中央奥が「法華寺」本堂です。
小屋の壁に、掲示物があります。
2018年9月18日の静岡新聞の記事が掲示されていました。
「法華寺 100年ぶり大修理」
*** その記事を引用します。 ***
静岡県内で唯一、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている
焼津市花沢地区で、江戸時代の1695(元禄8)年に建立された
法華寺本堂の大修理が行われている。
使われている木材は大半が建立当時のもので、記された文字を解読し、
新たな歴史資料になることも期待される。
関係者は「多くの人に花沢地区の魅力を知ってほしい」と、
工事の見学会などを企画している。
天台宗寺院の法華寺は、奈良時代の738年に創建されたとされる古刹(こさつ)。
他に仁王門や客殿があり、本堂は開放的な外陣が特徴。
もともとかやぶきだった屋根は1905年に桟瓦ぶきに変更され、
1969年にふき替えが行われた。
1905年以来の大規模修理となる今回の工事では、
全て新しい瓦にふき替え、傷んだ部分を修復するほか、
過去に行われた改修工事についても調べる。
これまでの調査で、小屋束の切断跡を新たに確認した。
かやぶきから瓦ぶきに変更する際、
屋根の傾斜をなだらかにするための措置とみられる。
建立当時の木材には住職や大工の名前、住所などが書かれ、
詳しく分析すれば新たな事実の解明につながる可能性があるという。
6月から工事に着手し、2019年末終了予定。
歴史的建造物修復建築家の村田信夫さん(73)=滋賀県=の監修の下、
1級建築士倉田裕司さん(54)=袋井市=ら県内の業者や職人が従事している。
村田さんは「多くの修理の痕跡から大切にされてきた建物だと分かる。
工事の様子を通じ、地域が受け継いできた歴史を知ってほしい」と話す。
村田さんらは調査のため本堂のかやぶき屋根当時の写真を探している。
問い合わせはマルワ建工<電054(622)5203>へ。
<メモ>焼津市花沢地区 山間部の谷間にある30戸ほどの集落で、
江戸時代後期に建設された主屋(母屋)や付属屋が残る。
明治時代以降、お茶やミカン栽培の盛行とともに建物が増改築されたが、
江戸時代の屋敷配置が今も守られている。
日本坂峠へと続く街道沿いに石垣と付属屋が階段状に連なり、
独特の景観を作る。歴史的景観と豊かな自然が調和した山里として
2014年9月、県内初の国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
法華寺は集落の北端に位置する。
本堂の修理工事には国、県、市の補助金が活用されている。
*** ここまで ***
修理工事の進捗情報の写真たちです。左から順に。
瓦を取り外す時の様子です。
これからさらに作業が進んでいるようです。
この日は、「藤枝建築高等職業訓練校」の訓練生の皆さんが
授業の一環で、「法華寺」の本堂改修工事の見学をすると伺ったので、
同行取材をさせていただきました。
右側に並んでいるのが、「藤枝建築高等職業訓練校」の皆さん。
左側にいらっしゃるのが、この工事をされている大工さんたち。
向かって左から、棟梁・澁谷さん、澤山さん、
施工管理「マルワ建工」の伊藤さん、杉山さん。
澁谷棟梁のトラックに、材木がたくさん積まれていました。
波打ったような材が見えます。
全て、松材だそうです。
こちらは、保存工作小屋。
外した材を保存したり、墨付けをしたり、加工するための作業場です。
いろいろな道具があります。
解体して外された、古い材料もあります。
取り外した材は、ベニヤ板で作られた名札のようなものが付けられています。
外された瓦も、場所や種類別に整理されています。
鈴(銅羅?)と鈴紐も。
さすが焼津のお寺です。
鈴紐は、漁師の技術!縄の編袋(?)で巻かれています。
伊藤さんの説明を聞きます。
あっ、これは!外した材の中に、あの波打ったような材もありますね。
こちらが新しい材です。
「打越垂木(うちこしだるき)」というそうです。
これはまだ荒取り(という表現でいいのか?)したものなので、
これから削って、ぴったりな寸法にするようです。
元は相当大きな木材でないとこのカーブは採れませんね。
これが釘です!
余談ですが、昨年、藤枝市郷土博物館での「日本刀ができるまで」の講座で、
富士宮市在住の刀匠「内田義基」さんが、
「玉鋼(たまはがね)」はたたら製鉄で作られるが、
材料は貴重なので、京都の聖護院の御神殿の角釘など、
古いお寺の改修などで出た建築金物も使うとおしゃっていました。
その記事は、こちら。
先ほどの釘がいつのものかわかりませんが、
もし「法華寺」創建当時の釘だったら…、
と考えると、浪漫ですよね〜。
それでは現場に入ります。
傷んだ柱を取り替えるところです。
チョークで引いたところを切り取るようです。
右に回り込むと、こんな感じ。
柱を垂直に立て直し、水糸(黄色い糸)で水平を出し、
不陸(ふろく・ふりく:水平かどうか)調整をするそうです。
柱を正しい位置に据え直して、ジャッキで持ち上げておいて、
代わりの新しい柱をここに入れ替えるそうです。
この柱の材は、「栂(つが・とが)」。
そんなに高級な材ではなかったそうですが、
今では希少価値で、すごく高いのだそうです。
高級な檜(ひのき)が買えるくらいの値段だそうです。
それでも、元の素材で修復することを第一としているので、
この柱は「栂」で、直します。
新しい柱。「栂材」はこちら。
外にあったこれですね。
断面図はこちら。
他の割れを防ぐためにあえて「背割り」がなされています。
不陸調整をして、隙間が空いてしまったところには、
鉛板(なまりいた)を敷くのだそうです。
花沢地区の地盤はいいそうです。
束石はなるべくそのまま使いますが、
ひどく傷んでいる場合は取り替えることもあるそうですが、
同様の石を使います。
コンクリートを流すなどということはないそうです。
今回の修理は、文化財建造物の保存修理にあたり、
国庫・静岡県・焼津市の補助事業なので、
専門家の指導・助言を受けながら行うのだそうです。
この工事は単なる新しい材料で建て直すだけというわけではなく、
なるべく元々使われていた材料と同等のものを使って直すそうです。
さらに、創建当時の記録はないため、
解体しながら、どのようになっていたのかを、
探偵のように探りながら、記録して、作業を進めるため、
大変時間がかかるそうです。
その際に、以前はどうなっていたのかを考えるとき、
とかく「こうであって欲しいもの」という思いにとらわれてしまうと、
そちらに導いてしまうことがあるため、
保存修理監修をなさっている「OFFICE 萬瑠夢」の村田先生からは、
創建当時の材料かどうか?などを考えるときに、
大工さんとしっかりミーティングして、
みんなで意見交換するところは、とても大切だと。
1人で抱え込まないように!と注意があったそうです。
では、2階に移動します。
この明るい色の木が、新しい木で直したところ。
どうやって差し替えたのか?
知恵の輪のパズルのようです。
今までの工事の中では、ここが一番難しかったそうです。
お寺の屋根を、この角度から見られることはなかなかないので、
皆さん、真剣に見ています。
かなりな急勾配に見えますが、
明治の改修以前には茅葺きだったそうです。
その当時の写真だそうです。
茅葺きだった時にはもっと急勾配だったそうです。
図面はないのにそれがわかるのは、なぜか?
その証拠がこちら。
「小屋束(こやづか)」の柱に、「江尻之」と読めますね?
この本堂が建立されたのが、元禄8年(1695)で、
大工「江尻八郎兵衛」と記録があるそうです。
その大工さんの名前が書かれた柱が切られているということは、
後の改修の時(おそらく明治期)に、屋根の勾配を変えたのでは?
ということがわかるのだそうです。
こういうことを一つ一つ、気付きながら調べながら、
進めていくのだそうです。
この横に渡った母屋(梁?)の一部が削られています。
あっ、曲げられた釘発見!
先ほどの釘の使われ方ですね。
全ての釘の箇所はチョークでマークされ、記録されます。
解体する時には、「野帳(やちょう)」はつきものだとか。
「野帳」とは、観察・測量・測定した結果を記録すること、
または、そのノートのこと。
これが「打越垂木」ですね。
釘の位置だけでなく、点検してみて、使える材と交換する材をマーク。
「×」がついているものは、今回、交換する部分。
1本の材料でなく途中で切れているものもあります。
明治または、昭和の修理の時にそうなったのかも知れません。
針金の類も、どこでどう使われていたかが記録され、
束ねられていました。
屋根の端っこのところ。
鎹(かすがい)でしょうか?
「木負(きおい)」のところの釘「木負」とは、
「地垂木の先端の上面に取り付けられる横木で
飛檐垂木を繋ぐ役割を持つ」そうです。
全て保存されています。
屋根の上に組まれた、屋根の作りも見事です。
「茅負(かやおい)」という部材です。
昭和45年に行われた修理工事の時の関係者の名前です。
大きな梁は、元禄時代のものでしょうか?
大工さん達も合流して解説をしてくれました。
今回の仕事は、皆さんの期待も大きくて、
いろいろな責任も感じるので、プレッシャーがハンパないそうです。
訓練生も授業の一環で来ているので、
1人ずつ質問しました。
本当に美しいですね。
もっと建築について紹介したいですが、
ぱらぽん、まだまだ勉強不足のため、
ここではこのくらいにしておきます。
もう少し、わかるようになったら、解説を加えたいですね。
3人の訓練生たち。
普段は、建築の仕事をしています。
毎週水曜日は、「藤枝建築高等職業訓練校」に通って勉強しています。
左から、「アクトホーム」の大石麒一郎くん。3年生。
「石川木材」の鈴木健太くん。1年生。
「ヤマタケ建設」の竹田修平くん。3年生。
これからの日本の建築業界をよろしくね!
階段を下りるところはこんな感じ。
こちらは、仁王門。
木造入母屋造り、銅板葺の八脚門。
元禄16年(1703)12月、藤枝の大工伊左衛門によって建立。
左右の前部に、仁王尊(金剛力士像)がまつられています。
修理工事のお知らせ。
みなさま、お疲れ様でした。
帰りにはみんなで「花沢の里」の「カントリーオーブン」さんに立ち寄りました。
同行していた「朝日新聞」の阿久沢さんから取材を受けました。
そして、校長先生の粋な計らいで、コーヒータイムも。
「クリームブリュレ」や「ビスコッティ」で和むところは、
イケメンスイーツ男子たちでした!!
来年度は、鈴木くんが1人になってしまうので、
誰か入学してくれないかなあ〜。
くわしくは、こちらをどうぞ。
焼津市花沢地区の「ハイキングコース案内図」です。
この日は観光駐車場に車を停めて、「法華寺」までハイキング?
訪ねたのは、「法華寺」です。
左手にあるのが、仁王門、右手前にあるのは、保存工作小屋、
中央奥が「法華寺」本堂です。
小屋の壁に、掲示物があります。
2018年9月18日の静岡新聞の記事が掲示されていました。
「法華寺 100年ぶり大修理」
*** その記事を引用します。 ***
静岡県内で唯一、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている
焼津市花沢地区で、江戸時代の1695(元禄8)年に建立された
法華寺本堂の大修理が行われている。
使われている木材は大半が建立当時のもので、記された文字を解読し、
新たな歴史資料になることも期待される。
関係者は「多くの人に花沢地区の魅力を知ってほしい」と、
工事の見学会などを企画している。
天台宗寺院の法華寺は、奈良時代の738年に創建されたとされる古刹(こさつ)。
他に仁王門や客殿があり、本堂は開放的な外陣が特徴。
もともとかやぶきだった屋根は1905年に桟瓦ぶきに変更され、
1969年にふき替えが行われた。
1905年以来の大規模修理となる今回の工事では、
全て新しい瓦にふき替え、傷んだ部分を修復するほか、
過去に行われた改修工事についても調べる。
これまでの調査で、小屋束の切断跡を新たに確認した。
かやぶきから瓦ぶきに変更する際、
屋根の傾斜をなだらかにするための措置とみられる。
建立当時の木材には住職や大工の名前、住所などが書かれ、
詳しく分析すれば新たな事実の解明につながる可能性があるという。
6月から工事に着手し、2019年末終了予定。
歴史的建造物修復建築家の村田信夫さん(73)=滋賀県=の監修の下、
1級建築士倉田裕司さん(54)=袋井市=ら県内の業者や職人が従事している。
村田さんは「多くの修理の痕跡から大切にされてきた建物だと分かる。
工事の様子を通じ、地域が受け継いできた歴史を知ってほしい」と話す。
村田さんらは調査のため本堂のかやぶき屋根当時の写真を探している。
問い合わせはマルワ建工<電054(622)5203>へ。
<メモ>焼津市花沢地区 山間部の谷間にある30戸ほどの集落で、
江戸時代後期に建設された主屋(母屋)や付属屋が残る。
明治時代以降、お茶やミカン栽培の盛行とともに建物が増改築されたが、
江戸時代の屋敷配置が今も守られている。
日本坂峠へと続く街道沿いに石垣と付属屋が階段状に連なり、
独特の景観を作る。歴史的景観と豊かな自然が調和した山里として
2014年9月、県内初の国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
法華寺は集落の北端に位置する。
本堂の修理工事には国、県、市の補助金が活用されている。
*** ここまで ***
修理工事の進捗情報の写真たちです。左から順に。
瓦を取り外す時の様子です。
これからさらに作業が進んでいるようです。
この日は、「藤枝建築高等職業訓練校」の訓練生の皆さんが
授業の一環で、「法華寺」の本堂改修工事の見学をすると伺ったので、
同行取材をさせていただきました。
右側に並んでいるのが、「藤枝建築高等職業訓練校」の皆さん。
左側にいらっしゃるのが、この工事をされている大工さんたち。
向かって左から、棟梁・澁谷さん、澤山さん、
施工管理「マルワ建工」の伊藤さん、杉山さん。
澁谷棟梁のトラックに、材木がたくさん積まれていました。
波打ったような材が見えます。
全て、松材だそうです。
こちらは、保存工作小屋。
外した材を保存したり、墨付けをしたり、加工するための作業場です。
いろいろな道具があります。
解体して外された、古い材料もあります。
取り外した材は、ベニヤ板で作られた名札のようなものが付けられています。
外された瓦も、場所や種類別に整理されています。
鈴(銅羅?)と鈴紐も。
さすが焼津のお寺です。
鈴紐は、漁師の技術!縄の編袋(?)で巻かれています。
伊藤さんの説明を聞きます。
あっ、これは!外した材の中に、あの波打ったような材もありますね。
こちらが新しい材です。
「打越垂木(うちこしだるき)」というそうです。
これはまだ荒取り(という表現でいいのか?)したものなので、
これから削って、ぴったりな寸法にするようです。
元は相当大きな木材でないとこのカーブは採れませんね。
これが釘です!
余談ですが、昨年、藤枝市郷土博物館での「日本刀ができるまで」の講座で、
富士宮市在住の刀匠「内田義基」さんが、
「玉鋼(たまはがね)」はたたら製鉄で作られるが、
材料は貴重なので、京都の聖護院の御神殿の角釘など、
古いお寺の改修などで出た建築金物も使うとおしゃっていました。
その記事は、こちら。
先ほどの釘がいつのものかわかりませんが、
もし「法華寺」創建当時の釘だったら…、
と考えると、浪漫ですよね〜。
それでは現場に入ります。
傷んだ柱を取り替えるところです。
チョークで引いたところを切り取るようです。
右に回り込むと、こんな感じ。
柱を垂直に立て直し、水糸(黄色い糸)で水平を出し、
不陸(ふろく・ふりく:水平かどうか)調整をするそうです。
柱を正しい位置に据え直して、ジャッキで持ち上げておいて、
代わりの新しい柱をここに入れ替えるそうです。
この柱の材は、「栂(つが・とが)」。
そんなに高級な材ではなかったそうですが、
今では希少価値で、すごく高いのだそうです。
高級な檜(ひのき)が買えるくらいの値段だそうです。
それでも、元の素材で修復することを第一としているので、
この柱は「栂」で、直します。
新しい柱。「栂材」はこちら。
外にあったこれですね。
断面図はこちら。
他の割れを防ぐためにあえて「背割り」がなされています。
不陸調整をして、隙間が空いてしまったところには、
鉛板(なまりいた)を敷くのだそうです。
花沢地区の地盤はいいそうです。
束石はなるべくそのまま使いますが、
ひどく傷んでいる場合は取り替えることもあるそうですが、
同様の石を使います。
コンクリートを流すなどということはないそうです。
今回の修理は、文化財建造物の保存修理にあたり、
国庫・静岡県・焼津市の補助事業なので、
専門家の指導・助言を受けながら行うのだそうです。
この工事は単なる新しい材料で建て直すだけというわけではなく、
なるべく元々使われていた材料と同等のものを使って直すそうです。
さらに、創建当時の記録はないため、
解体しながら、どのようになっていたのかを、
探偵のように探りながら、記録して、作業を進めるため、
大変時間がかかるそうです。
その際に、以前はどうなっていたのかを考えるとき、
とかく「こうであって欲しいもの」という思いにとらわれてしまうと、
そちらに導いてしまうことがあるため、
保存修理監修をなさっている「OFFICE 萬瑠夢」の村田先生からは、
創建当時の材料かどうか?などを考えるときに、
大工さんとしっかりミーティングして、
みんなで意見交換するところは、とても大切だと。
1人で抱え込まないように!と注意があったそうです。
では、2階に移動します。
この明るい色の木が、新しい木で直したところ。
どうやって差し替えたのか?
知恵の輪のパズルのようです。
今までの工事の中では、ここが一番難しかったそうです。
お寺の屋根を、この角度から見られることはなかなかないので、
皆さん、真剣に見ています。
かなりな急勾配に見えますが、
明治の改修以前には茅葺きだったそうです。
その当時の写真だそうです。
茅葺きだった時にはもっと急勾配だったそうです。
図面はないのにそれがわかるのは、なぜか?
その証拠がこちら。
「小屋束(こやづか)」の柱に、「江尻之」と読めますね?
この本堂が建立されたのが、元禄8年(1695)で、
大工「江尻八郎兵衛」と記録があるそうです。
その大工さんの名前が書かれた柱が切られているということは、
後の改修の時(おそらく明治期)に、屋根の勾配を変えたのでは?
ということがわかるのだそうです。
こういうことを一つ一つ、気付きながら調べながら、
進めていくのだそうです。
この横に渡った母屋(梁?)の一部が削られています。
あっ、曲げられた釘発見!
先ほどの釘の使われ方ですね。
全ての釘の箇所はチョークでマークされ、記録されます。
解体する時には、「野帳(やちょう)」はつきものだとか。
「野帳」とは、観察・測量・測定した結果を記録すること、
または、そのノートのこと。
これが「打越垂木」ですね。
釘の位置だけでなく、点検してみて、使える材と交換する材をマーク。
「×」がついているものは、今回、交換する部分。
1本の材料でなく途中で切れているものもあります。
明治または、昭和の修理の時にそうなったのかも知れません。
針金の類も、どこでどう使われていたかが記録され、
束ねられていました。
屋根の端っこのところ。
鎹(かすがい)でしょうか?
「木負(きおい)」のところの釘「木負」とは、
「地垂木の先端の上面に取り付けられる横木で
飛檐垂木を繋ぐ役割を持つ」そうです。
全て保存されています。
屋根の上に組まれた、屋根の作りも見事です。
「茅負(かやおい)」という部材です。
昭和45年に行われた修理工事の時の関係者の名前です。
大きな梁は、元禄時代のものでしょうか?
大工さん達も合流して解説をしてくれました。
今回の仕事は、皆さんの期待も大きくて、
いろいろな責任も感じるので、プレッシャーがハンパないそうです。
訓練生も授業の一環で来ているので、
1人ずつ質問しました。
本当に美しいですね。
もっと建築について紹介したいですが、
ぱらぽん、まだまだ勉強不足のため、
ここではこのくらいにしておきます。
もう少し、わかるようになったら、解説を加えたいですね。
3人の訓練生たち。
普段は、建築の仕事をしています。
毎週水曜日は、「藤枝建築高等職業訓練校」に通って勉強しています。
左から、「アクトホーム」の大石麒一郎くん。3年生。
「石川木材」の鈴木健太くん。1年生。
「ヤマタケ建設」の竹田修平くん。3年生。
これからの日本の建築業界をよろしくね!
階段を下りるところはこんな感じ。
こちらは、仁王門。
木造入母屋造り、銅板葺の八脚門。
元禄16年(1703)12月、藤枝の大工伊左衛門によって建立。
左右の前部に、仁王尊(金剛力士像)がまつられています。
修理工事のお知らせ。
みなさま、お疲れ様でした。
帰りにはみんなで「花沢の里」の「カントリーオーブン」さんに立ち寄りました。
同行していた「朝日新聞」の阿久沢さんから取材を受けました。
そして、校長先生の粋な計らいで、コーヒータイムも。
「クリームブリュレ」や「ビスコッティ」で和むところは、
イケメンスイーツ男子たちでした!!
来年度は、鈴木くんが1人になってしまうので、
誰か入学してくれないかなあ〜。
くわしくは、こちらをどうぞ。
2018-11-14 21:38
nice!(0)