2018.0805(日)「博物館講座 諏訪原城 〜発掘調査の成果と史跡整備の現状〜」@島田市博物館 [ヒストピア島田]
2018年8月5日(日)13:30〜
島田市博物館の講座室で行われたのは、
企画展(収蔵品)を2.5倍楽しむ「博物館講座」です。
テーマは、「諏訪原城 〜発掘調査の成果と史跡整備の現状〜」です。
まずは、「島田市博物館」の学芸員、朝比奈さんのご挨拶。
この日の講師は、島田市教育委員会 主任学芸員の
「萩原佳保里」さん。
京都の花園大学で、考古学を学ばれたとか。
この日、撮影&記録の許可を得ましたので、ブログに書かせていただきます。
会場は満員です。
8割の方は、ここ数年の間に、「諏訪原城」に行ったことがあるそうです。
つまり整備が始まってからの「諏訪原城」を見ているということです。
皆さんのイメージの城はどんな感じですか?
お城に行った時、どの場所を見ますか?
まずは、「諏訪原城」の位置を確認。
JR金谷駅から、西の坂道を500m登った牧之原台地。
標高は、金谷駅110m、諏訪原城の本曲輪が217mだそうです。
「諏訪原城」が注目されたのは、
旧金谷町の郷土史家「清水勝太郎」さんが、
現地調査を行い、建物や櫓の位置などを想像して、
図面(推定の縄張図)にした。
昭和29年(1954)、県指定の史跡になった。
昭和30年後半に金谷町で水害が発生し、
復興が優先され、諏訪原状の調査はストップした。
昭和50年(1975)国指定史跡になった。
本曲輪、二の丸曲輪、惣曲輪の一部。
選ばれた理由は、武田氏の遺構の残りが良いこと。
平成14年(2002)には、大手曲輪の一部が追加指定された。
総指定面積は、113,305㎡。
「諏訪原城」の立地は、
大井川を見渡せる国境に建っていた戦国の山城。
当時の大井川の位置は、今とは違って、もう少し西寄り。
牧之原台地に沿って流れていた。
自然地形に守られた、後ろ堅固の城だった。
「諏訪原城」の特徴
①国境(くにざかい)の城
②「後ろ堅固」の城
③丸馬出(まるうまだし)の多さと巨大さ
④大規模な横堀
⑤良好に残る虎口(こぐち)
⑥交通の要衝に立地
別名「扇城」
本曲輪を中心として、二の曲輪、惣曲輪と大手曲輪の配置が、
扇状になっている。
「諏訪原城」の歴史
天正元年(1573)
武田勝頼により築城
家臣の馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)に作らせた。
天正3年(1575)8月24日徳川家康に攻め落とされ、落城
武田軍は諏訪原城に火を放ち、小山城(吉田町)に逃げた。
家康の手に落ち、「牧野城(牧之原城)」となる。
天正7〜9年 度重なる改修。
「松平家忠日記」に改修の記録が出てくる。
「諏訪原城」の整備を進めるために!
(構想関係)
平成4年 諏訪原城跡保存管理策定報告書
平成8年 諏訪原城跡整備基本構想(青写真)
平成13年 諏訪原城跡整備基本構想(改訂版)
平成22年 諏訪原城跡整備基本計画(具体的に看板など)
平成23〜24年度 二の曲輪北馬出と園路の基本及び実施計画
平成25年〜 史跡整備
(公有化)
平成3〜19年度 約83%
(整備のための発掘調査)
平成16〜27年度
発掘調査から見る「諏訪原城」の姿
発掘調査の作業員の仕事は、意外に重労働。
ツルハシで、お茶の木の根っこなどを掘り上げる。
1日で辞める人が結構多い。
隅丸方形竪穴住居跡
土の色で、茶色のところは、「地山(じやま)」。
黒いところは、戦国時代のもの。
大手曲輪第三次調査
昭和58年、県道拡幅工事の時、茶畑の下から、
大手丸馬出の堀跡が出てきた。
右:薬研堀の断面図の写真
本曲輪の現在の様子
本曲輪には、ぐるっと囲んでいる土塁が残っている。
右:本曲輪の東斜面
堀の深さがわかる写真
本曲輪
堀の深さ8m、堀の幅15m弱。
トレンチ調査
箱堀の形状。そこは7mちょっと。
二の曲輪の位置からだと10mくらいした。
堀の局面はほぼ垂直。
本曲輪
左上:礎石跡。石の下には、潜らないように根固めの石として、
宝篋印塔が使われていた。
右上:柱穴の跡があった。
生活面は2面あった。
武田軍が逃げるときに火を掛けた。
土塁の下に、炭の跡、焼土痕、炭化米、被熱壁。
現在見ることのできる土塁は徳川のもの。
本曲輪は、二の曲輪よりも低い位置にある。スロープ状の道。
右下:土塁の上に建物があったようだ。
この曲輪の門礎石と塀基礎?
右の黒い四角、黒と茶色の地層が交互に出てくる。
叩いている。
左の上の方:門の礎石。」
二の曲輪北馬出の整備前の様子
闘いの馬出
青い点線のところが土塁
二の曲輪北馬出発掘調査の様子
二の曲輪北馬出周辺の整備
大手北外堀と二の曲輪中馬出南端部の発掘調査の様子
左:堀は、小さな箱堀。正面奥は土塁。
右:隅丸方形竪穴住居跡。番小屋か?
すり鉢、鉄製品、簡易的な武器を修理した跡
二の曲輪東内馬出しの発掘調査の様子
右上:土塁の痕跡。石の列。
右下:堀の断面
武田の薬研堀の痕跡と、徳川の箱堀
二の曲輪南馬出の発掘調査の様子
地形図によると、丸馬出だが小さい。
他の方法で防御できる?
平成27年度、二の曲輪東馬出の発掘調査の様子
諏訪神社の東側。土塁は、確認されていない。
門の礎石が出てきた。石は大きい。
堀の様子
薬研堀。牧の原礫層が見える。
出土品について
今までの発掘調査で天箱3個分ほどの出土品が出ている。
生活の名残はない。
建物、鉄砲玉、笄(こうがい)、米、丸碗、瀬戸碗など
鉄砲玉
二の曲輪南・内・東馬出
火縄銃の玉58点のうち、重ね馬出から52点出土。
この重ね馬出が、激戦区だと思われる。
山中城では、ソフトボール大の砲弾が。
発掘調査の成果(まとめ1)
・どこまで改修の痕跡が見られるのか?
本曲輪
→焼土を挟んでの2面の生活(遺構)面
二の曲輪東内馬出
→堀の改修痕(薬研堀から箱堀へ)
二の曲輪東馬出
→曲輪の整地(二回)
発掘調査の結果(まとめ2)
◯徳川氏時代の遺構か!?
・大規模な土塁の検出
本曲輪、二の曲輪、二の曲輪中馬出
・馬出出入り口(虎口)で門の礎石
本曲輪、二の曲輪、二の曲輪北馬出
二の曲輪東馬出
・堀の形状
箱堀→本曲輪内堀、二の曲輪中馬出
大手北外堀、二の曲輪南馬出
薬研堀→本曲輪北側斜面平坦地
大手南外堀、二の曲輪東馬出
薬研堀から箱堀へ
二の曲輪東内馬出
今後の「諏訪原城」は?
どうなる「諏訪原城」?
史跡整備の様子(堀の整備)
史跡整備の様子(堀)
堀のマウンドが、えぐれてきてしまいそう。
法面の保護が必要。
在来種の草の種が入った「ジオファイバー」で覆う。
薬医門建設(門基礎と屋根仮組)
戦国時代の城門とは?
「薬医門」
門だけだと、周りから攻め入られちゃうから、
土塁や塀なども作りたいのだが…。
文化庁の許可を得て、復元修理をするので、時間がかかる。
城門の間は隙間が空いている。
槍を挿されても閉められるように。
でも施工する大工さんは、現在の門と作りが違うため
難色を示した。
この事例について、広島大学の三浦先生にも来てもらって、
説明してもらい、施行された。
徳川の「藁座」が特徴。
「藁座」とは、開き扉の軸を受けるため、
地覆 (じふく) や貫 (ぬき) に取り付ける金具などの部材のこと。
屋根は銅板葺き
最新情報!史跡整備事業(平成29年度)
曲輪の整地。
堀切の木橋。
園路史跡整備前と園路史跡整備後
右の方に土塁を積み、通路は人一人がやっとというように見せたい。
中馬出の堀から見る北馬出の門
本曲輪の整備
中馬出の整備
入口にガイダンス施設を作る。100㎡くらい。
国の補助金が、災害支援に使われるので、予定が遅れそう。
平成36年度の予定が、平成45年度くらいになりそう。
毎年、どこかしら整備しているので、
いつでも時々見に行って欲しい。
山城入門の講座など、好評。
発掘は、今後再開していく予定ではある。
史跡整備との兼ね合い。
今後も調査見学など、諏訪原状に関するお弁とは実施予定。
草刈りボランティア 11月半ばの土曜日に予定。
情報は、インターネットや新聞です。
平成21〜27年度に行われた「発掘調査報告書」は、
島田市博物館にて、販売中(1,500円)
それ以前は、「金谷町史 通史編」(平成16年度)
に書かれている。図書館などに配架されている。
諏訪原城見学の時に解説をしてもらいたい方は、
観光ボランティア制度がある。
数人集まり予約をすれば、案内してくれるそうです。
島田市観光協会へ。
萩原さん、ありがとうございました。
出土したものたち。
島田市博物館 9月15日(土)からの展示は、こちら。
「島田の幕末維新 ー150年前の緑茶化計画ー」
お楽しみに!!
島田市博物館の講座室で行われたのは、
企画展(収蔵品)を2.5倍楽しむ「博物館講座」です。
テーマは、「諏訪原城 〜発掘調査の成果と史跡整備の現状〜」です。
まずは、「島田市博物館」の学芸員、朝比奈さんのご挨拶。
この日の講師は、島田市教育委員会 主任学芸員の
「萩原佳保里」さん。
京都の花園大学で、考古学を学ばれたとか。
この日、撮影&記録の許可を得ましたので、ブログに書かせていただきます。
会場は満員です。
8割の方は、ここ数年の間に、「諏訪原城」に行ったことがあるそうです。
つまり整備が始まってからの「諏訪原城」を見ているということです。
皆さんのイメージの城はどんな感じですか?
お城に行った時、どの場所を見ますか?
まずは、「諏訪原城」の位置を確認。
JR金谷駅から、西の坂道を500m登った牧之原台地。
標高は、金谷駅110m、諏訪原城の本曲輪が217mだそうです。
「諏訪原城」が注目されたのは、
旧金谷町の郷土史家「清水勝太郎」さんが、
現地調査を行い、建物や櫓の位置などを想像して、
図面(推定の縄張図)にした。
昭和29年(1954)、県指定の史跡になった。
昭和30年後半に金谷町で水害が発生し、
復興が優先され、諏訪原状の調査はストップした。
昭和50年(1975)国指定史跡になった。
本曲輪、二の丸曲輪、惣曲輪の一部。
選ばれた理由は、武田氏の遺構の残りが良いこと。
平成14年(2002)には、大手曲輪の一部が追加指定された。
総指定面積は、113,305㎡。
「諏訪原城」の立地は、
大井川を見渡せる国境に建っていた戦国の山城。
当時の大井川の位置は、今とは違って、もう少し西寄り。
牧之原台地に沿って流れていた。
自然地形に守られた、後ろ堅固の城だった。
「諏訪原城」の特徴
①国境(くにざかい)の城
②「後ろ堅固」の城
③丸馬出(まるうまだし)の多さと巨大さ
④大規模な横堀
⑤良好に残る虎口(こぐち)
⑥交通の要衝に立地
別名「扇城」
本曲輪を中心として、二の曲輪、惣曲輪と大手曲輪の配置が、
扇状になっている。
「諏訪原城」の歴史
天正元年(1573)
武田勝頼により築城
家臣の馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)に作らせた。
天正3年(1575)8月24日徳川家康に攻め落とされ、落城
武田軍は諏訪原城に火を放ち、小山城(吉田町)に逃げた。
家康の手に落ち、「牧野城(牧之原城)」となる。
天正7〜9年 度重なる改修。
「松平家忠日記」に改修の記録が出てくる。
「諏訪原城」の整備を進めるために!
(構想関係)
平成4年 諏訪原城跡保存管理策定報告書
平成8年 諏訪原城跡整備基本構想(青写真)
平成13年 諏訪原城跡整備基本構想(改訂版)
平成22年 諏訪原城跡整備基本計画(具体的に看板など)
平成23〜24年度 二の曲輪北馬出と園路の基本及び実施計画
平成25年〜 史跡整備
(公有化)
平成3〜19年度 約83%
(整備のための発掘調査)
平成16〜27年度
発掘調査から見る「諏訪原城」の姿
発掘調査の作業員の仕事は、意外に重労働。
ツルハシで、お茶の木の根っこなどを掘り上げる。
1日で辞める人が結構多い。
隅丸方形竪穴住居跡
土の色で、茶色のところは、「地山(じやま)」。
黒いところは、戦国時代のもの。
大手曲輪第三次調査
昭和58年、県道拡幅工事の時、茶畑の下から、
大手丸馬出の堀跡が出てきた。
右:薬研堀の断面図の写真
本曲輪の現在の様子
本曲輪には、ぐるっと囲んでいる土塁が残っている。
右:本曲輪の東斜面
堀の深さがわかる写真
本曲輪
堀の深さ8m、堀の幅15m弱。
トレンチ調査
箱堀の形状。そこは7mちょっと。
二の曲輪の位置からだと10mくらいした。
堀の局面はほぼ垂直。
本曲輪
左上:礎石跡。石の下には、潜らないように根固めの石として、
宝篋印塔が使われていた。
右上:柱穴の跡があった。
生活面は2面あった。
武田軍が逃げるときに火を掛けた。
土塁の下に、炭の跡、焼土痕、炭化米、被熱壁。
現在見ることのできる土塁は徳川のもの。
本曲輪は、二の曲輪よりも低い位置にある。スロープ状の道。
右下:土塁の上に建物があったようだ。
この曲輪の門礎石と塀基礎?
右の黒い四角、黒と茶色の地層が交互に出てくる。
叩いている。
左の上の方:門の礎石。」
二の曲輪北馬出の整備前の様子
闘いの馬出
青い点線のところが土塁
二の曲輪北馬出発掘調査の様子
二の曲輪北馬出周辺の整備
大手北外堀と二の曲輪中馬出南端部の発掘調査の様子
左:堀は、小さな箱堀。正面奥は土塁。
右:隅丸方形竪穴住居跡。番小屋か?
すり鉢、鉄製品、簡易的な武器を修理した跡
二の曲輪東内馬出しの発掘調査の様子
右上:土塁の痕跡。石の列。
右下:堀の断面
武田の薬研堀の痕跡と、徳川の箱堀
二の曲輪南馬出の発掘調査の様子
地形図によると、丸馬出だが小さい。
他の方法で防御できる?
平成27年度、二の曲輪東馬出の発掘調査の様子
諏訪神社の東側。土塁は、確認されていない。
門の礎石が出てきた。石は大きい。
堀の様子
薬研堀。牧の原礫層が見える。
出土品について
今までの発掘調査で天箱3個分ほどの出土品が出ている。
生活の名残はない。
建物、鉄砲玉、笄(こうがい)、米、丸碗、瀬戸碗など
鉄砲玉
二の曲輪南・内・東馬出
火縄銃の玉58点のうち、重ね馬出から52点出土。
この重ね馬出が、激戦区だと思われる。
山中城では、ソフトボール大の砲弾が。
発掘調査の成果(まとめ1)
・どこまで改修の痕跡が見られるのか?
本曲輪
→焼土を挟んでの2面の生活(遺構)面
二の曲輪東内馬出
→堀の改修痕(薬研堀から箱堀へ)
二の曲輪東馬出
→曲輪の整地(二回)
発掘調査の結果(まとめ2)
◯徳川氏時代の遺構か!?
・大規模な土塁の検出
本曲輪、二の曲輪、二の曲輪中馬出
・馬出出入り口(虎口)で門の礎石
本曲輪、二の曲輪、二の曲輪北馬出
二の曲輪東馬出
・堀の形状
箱堀→本曲輪内堀、二の曲輪中馬出
大手北外堀、二の曲輪南馬出
薬研堀→本曲輪北側斜面平坦地
大手南外堀、二の曲輪東馬出
薬研堀から箱堀へ
二の曲輪東内馬出
今後の「諏訪原城」は?
どうなる「諏訪原城」?
史跡整備の様子(堀の整備)
史跡整備の様子(堀)
堀のマウンドが、えぐれてきてしまいそう。
法面の保護が必要。
在来種の草の種が入った「ジオファイバー」で覆う。
薬医門建設(門基礎と屋根仮組)
戦国時代の城門とは?
「薬医門」
門だけだと、周りから攻め入られちゃうから、
土塁や塀なども作りたいのだが…。
文化庁の許可を得て、復元修理をするので、時間がかかる。
城門の間は隙間が空いている。
槍を挿されても閉められるように。
でも施工する大工さんは、現在の門と作りが違うため
難色を示した。
この事例について、広島大学の三浦先生にも来てもらって、
説明してもらい、施行された。
徳川の「藁座」が特徴。
「藁座」とは、開き扉の軸を受けるため、
地覆 (じふく) や貫 (ぬき) に取り付ける金具などの部材のこと。
屋根は銅板葺き
最新情報!史跡整備事業(平成29年度)
曲輪の整地。
堀切の木橋。
園路史跡整備前と園路史跡整備後
右の方に土塁を積み、通路は人一人がやっとというように見せたい。
中馬出の堀から見る北馬出の門
本曲輪の整備
中馬出の整備
入口にガイダンス施設を作る。100㎡くらい。
国の補助金が、災害支援に使われるので、予定が遅れそう。
平成36年度の予定が、平成45年度くらいになりそう。
毎年、どこかしら整備しているので、
いつでも時々見に行って欲しい。
山城入門の講座など、好評。
発掘は、今後再開していく予定ではある。
史跡整備との兼ね合い。
今後も調査見学など、諏訪原状に関するお弁とは実施予定。
草刈りボランティア 11月半ばの土曜日に予定。
情報は、インターネットや新聞です。
平成21〜27年度に行われた「発掘調査報告書」は、
島田市博物館にて、販売中(1,500円)
それ以前は、「金谷町史 通史編」(平成16年度)
に書かれている。図書館などに配架されている。
諏訪原城見学の時に解説をしてもらいたい方は、
観光ボランティア制度がある。
数人集まり予約をすれば、案内してくれるそうです。
島田市観光協会へ。
萩原さん、ありがとうございました。
出土したものたち。
島田市博物館 9月15日(土)からの展示は、こちら。
「島田の幕末維新 ー150年前の緑茶化計画ー」
お楽しみに!!
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