みちゆかしNo.7「これより岩村藩領!〜B級史跡めぐりと岩村藩名物〜」レポート [みちゆかし]
2017年12月4日(月)9:30〜
藤枝市横内の「慈眼寺」さんに集合して行われたのは、
みちゆかしNo.7「これより岩村藩領!〜B級史跡めぐりと岩村藩名物〜」です。
こちらが、集合場所のお寺「慈眼寺(じげんじ)」さんです。
「西了山 慈眼寺」曹洞宗のお寺です。
山号の「西了山」について
普通お寺は、南側を向いて建てられることが多い。
「慈眼寺」は東海道に面して、西向きに建てられている。
本尊は「阿弥陀如来」ということで、
再訪極楽浄土に往生医し了る(おわる)ことを願ったものではないか。
こちらが、「慈眼寺」12代目の住職の「柴田英憲」さん。
まずは境内で、「横内」のお話を聴きます。
「横内村」は、1594年開かれた。
池田孫次郎(?)が朝比奈川の治水を行った。
慶應4(1868)年のの地図と、昭和21(1946)年の航空写真を見比べながら、
説明してくださいました。
江戸時代の横内村の領主は、
慶長8(1603)年 天領(幕府直轄地)
宝永2(1705)年 田中領
享保20(1735)年 岩村領
明治2(1869)年 版籍奉還
のように変遷した。
横内村が美濃国の岩村領となったのは、
享保20年に、岩村城主「松平乗賢」が幕府の要職である老中職となり、
所領を2万石から3万石に引き上げられたから。
その時、1万石加増分のうち5000石が、駿河の15ヶ村に
飛び領地として幕府から与えられた。
そのひとつが、横内村。
15ヶ所の飛び地のほぼ真ん中にあり、東海道沿い。
川の流れ、水運を利用できた。
「横内陣屋」としてまとめ役。
境内には「代官地蔵」が遺っています。
横内陣屋の3代目代官の「田中清太夫」首上をまつる。
岩村藩横内陣屋では、温情ある政策が行われ、
年貢の負担が軽減されていたようで、
領内では、一揆が一度も起きなかった。
・貸し付けによる資金援助
・病気予防の薬(耳かき一杯)を配布
・90歳以上の高齢者に長寿を祝って、米2俵与えた。
など。
明治になるとき、版籍奉還に際して、駿河15ヶ村は、
今まで通り岩村藩の城主のままにして欲しいという文書(訴状)が遺る。
(はんこはなかった)
慕われていたことが分かります。
皆さん、熱心にお話を聴いています。
代官たちのお墓が遺ります。
2代目と6代目、役人とその家族のものだそうです。
それでは、横内歴史散策と行きましょう。
これが、傍示杭「これより西、岩村領」
「横内歴史研究会」による看板。
「横内歴史案内」も掲示してありました。
来た人がもらって帰れるように、リーフレットも置いてありました。
こういうのいいですね!
「ここより」のポイントのところに立って、説明してくださいます。
この法被を着ている方々が「横内歴史研究会」の方々のようです。
このような杭もありました。
陣屋が置かれた場所は、今でも「陣屋小路」と呼ばれているそうです。
川の畔に神社もあります。
横の細道を上がっていくと、
「朝比奈川」沿いの道です。
「堂ノ前地蔵尊」疣取地蔵と川除地蔵。
こういう小路を歩いて行くのを見ると、
ロールプレイングゲームのようで、何だかうれしくなります。
このような杭もありました。
「とつか酒店」さん。
この屋号はなんと読むのでしょう?
岐阜県恵那市岩村町にある「岩村酒造」のお酒
「女城主」と「えなのほまれ」です。
戦国時代に織田信長の叔母が岩村城を守ったことに因んで、
女城主という銘柄が誕生したのだそうです。
岐阜「岩村酒造」のお酒が、横内で手に入りますよ。
「慈眼寺」に戻ってきました。
これから本堂にお参りし、またお話を聞きます。
まずは、皆さんで「般若心経」を唱えました。
そしてご焼香をしました。
「慈眼寺」さんにお祀りしている御尊像などを拝見します。
「抱地蔵尊」
「宗吾大明神」
「宗吾」というのは、江戸時代初期、千葉県佐倉の義民「宗吾(惣五郎)」のこと。
佐倉藩二百ヶ村の農民たちが高い年貢に苦しめられており、
いろいろと年貢を下げてもらう訴状を出し訴えるが、聞いてもらえず、
ついに意を決して、惣五郎が将軍へ直訴して、年貢は引き下げられたものの、
直訴は御法度破りの大罪なため、惣五郎と家族は刑に処された。
後に農民の味方「宗吾大明神」としてまつられるようになった。
歌舞伎や浪曲のモチーフにもなって、庶民にも慕われたそう。
こちらの額は、その場面を表したもの。
「佐倉宗五朗 故郷出立の図」だそうです。
どこかで聞いたことのある話だなあと思ったら、
そういえば、2007年に、藤枝市八幡の「日照山耕春院」本堂にて、
「浪曲と講談を楽しむ会」があったのですが、
その時の演目のひとつが、「佐倉義民伝 妻子の別れ」。
語ってくれたのは「天中軒月子さん」。
岐阜県郡上八幡のご出身だというから、やはり繋がっているんですね。
それでは、なぜ、千葉の義民の「宗吾大明神」が、横内にあるのか?という疑問。
明治時代、輸出用の絹の生産が盛んで、養蚕は農家の貴重な現金収入源でしたが、
白髭神社のある村では、祭神猿田彦命(さるたひこのみこと)が、
桑の枝で片目を突いたという言い伝えがあるため、信心の厚い村では、
蚕の餌となる桑を栽培することを遠慮する風習があったそう。
そこで、横内の侠客「塚本角蔵」が農民の味方である
「宗吾大明神」を祀ることで桑の木の栽培が許されることを思いつき、
明治38(1905)年、千葉県佐倉の宗吾霊堂のある「東勝寺」まで出かけ、
尊霊を分けてもらってきたそう。
この方が「塚本角蔵」。
境内には、立派なお墓もあります。
本尊の「阿弥陀如来」
左の「阿弥陀如来座像」は、平安後期の作。
右の「阿弥陀如来立像」は、江戸中期の作。
最後は、「岩村藩」縁のスイーツをいただきます。
「岩村酒造」の「純米あま酒」と、
創業寛政8年「松浦軒本店」の「カステーラ」。
実はこの「カステーラ」岐阜県まで行かなくても、
新東名「藤枝PA」上りの売店で売っています。
なぜかというと、恵那市は藤枝市と姉妹都市ですし、
上りの「藤枝PA」のお店は、岐阜の会社が経営しているからです。
美味しいお菓子をいただきながら伺ったのは、さらなるお宝。
岩村藩出身の教育家・歌人で、女子教育の先覚者、
後に、実践女子学園を創設した「下田歌子」さんの書など。
いろいろ盛りだくさんで、長くなりました。
藤枝市内に、岩村藩の飛地があるという話は聞いたことがあったのですが、
それがどこなのか、どうしてなのか?分かってなかったので、
今回の「みちゆかし」で知ることができてよかったです。
さらに感慨深いお話。
今回のこのプログラムは、「藤枝おんぱく」「みちゆかし」ではおなじみ
「佐野石材」さんが「慈眼寺」さんをご紹介したそうです。
プログラムをすることになって、活躍されたのが「横内歴史研究会」の皆さん。
平成13年に行われた「東海道四〇〇年祭」の時に、
エントリー承認事業として、いろいろ整備されたようです。
その時の名残の看板などがあり、まちあるきを楽しくしてくれました。
今でも毎年、岐阜県恵那市岩村町に出かけて、交流なさっているそうです。
そして、こちら。
「藤枝市横内四百年史 慈眼寺住職 柴田芳憲」
目次の一部はこちら。
この本を書かれたのは、ご住職のお父様の「柴田芳憲」さん。
岡部町の「十輪寺」のご住職でした。
住職の英憲さんは、
今回準備にあたり、お父様が書かれた「藤枝市横内四百年史」を読まれて、
改めてすごい仕事をしたなあと、感心なさったそうです。
残念ながら、今年10月に亡くなられました。
うちの息子が中学の時、国語を習った先生でもあり、
剣道部の副顧問で、お世話になりました。
これも何かのご縁と感じて、「藤枝市横内四百年史」を
譲ってもらいました。
この本に興味のある方は、「慈眼寺」さんにお問い合わせしてみてください。
岐阜県恵那市には、日本三大山城といわれる「岩村城跡」があるそうです。
ちょっと訪ねてみたくなりました。
紹介サイト「城下町 ほっといわむら」は、こちら。
写真は「慈眼寺」のガラス窓。家紋は「丸に八つ矢車」でしょうか?
ご住職、おもてなしをしてくださった奥様、檀家の皆さま、
横内歴史研究会の皆さま、ありがとうございました。
藤枝市横内の「慈眼寺」さんに集合して行われたのは、
みちゆかしNo.7「これより岩村藩領!〜B級史跡めぐりと岩村藩名物〜」です。
こちらが、集合場所のお寺「慈眼寺(じげんじ)」さんです。
「西了山 慈眼寺」曹洞宗のお寺です。
山号の「西了山」について
普通お寺は、南側を向いて建てられることが多い。
「慈眼寺」は東海道に面して、西向きに建てられている。
本尊は「阿弥陀如来」ということで、
再訪極楽浄土に往生医し了る(おわる)ことを願ったものではないか。
こちらが、「慈眼寺」12代目の住職の「柴田英憲」さん。
まずは境内で、「横内」のお話を聴きます。
「横内村」は、1594年開かれた。
池田孫次郎(?)が朝比奈川の治水を行った。
慶應4(1868)年のの地図と、昭和21(1946)年の航空写真を見比べながら、
説明してくださいました。
江戸時代の横内村の領主は、
慶長8(1603)年 天領(幕府直轄地)
宝永2(1705)年 田中領
享保20(1735)年 岩村領
明治2(1869)年 版籍奉還
のように変遷した。
横内村が美濃国の岩村領となったのは、
享保20年に、岩村城主「松平乗賢」が幕府の要職である老中職となり、
所領を2万石から3万石に引き上げられたから。
その時、1万石加増分のうち5000石が、駿河の15ヶ村に
飛び領地として幕府から与えられた。
そのひとつが、横内村。
15ヶ所の飛び地のほぼ真ん中にあり、東海道沿い。
川の流れ、水運を利用できた。
「横内陣屋」としてまとめ役。
境内には「代官地蔵」が遺っています。
横内陣屋の3代目代官の「田中清太夫」首上をまつる。
岩村藩横内陣屋では、温情ある政策が行われ、
年貢の負担が軽減されていたようで、
領内では、一揆が一度も起きなかった。
・貸し付けによる資金援助
・病気予防の薬(耳かき一杯)を配布
・90歳以上の高齢者に長寿を祝って、米2俵与えた。
など。
明治になるとき、版籍奉還に際して、駿河15ヶ村は、
今まで通り岩村藩の城主のままにして欲しいという文書(訴状)が遺る。
(はんこはなかった)
慕われていたことが分かります。
皆さん、熱心にお話を聴いています。
代官たちのお墓が遺ります。
2代目と6代目、役人とその家族のものだそうです。
それでは、横内歴史散策と行きましょう。
これが、傍示杭「これより西、岩村領」
「横内歴史研究会」による看板。
「横内歴史案内」も掲示してありました。
来た人がもらって帰れるように、リーフレットも置いてありました。
こういうのいいですね!
「ここより」のポイントのところに立って、説明してくださいます。
この法被を着ている方々が「横内歴史研究会」の方々のようです。
このような杭もありました。
陣屋が置かれた場所は、今でも「陣屋小路」と呼ばれているそうです。
川の畔に神社もあります。
横の細道を上がっていくと、
「朝比奈川」沿いの道です。
「堂ノ前地蔵尊」疣取地蔵と川除地蔵。
こういう小路を歩いて行くのを見ると、
ロールプレイングゲームのようで、何だかうれしくなります。
このような杭もありました。
「とつか酒店」さん。
この屋号はなんと読むのでしょう?
岐阜県恵那市岩村町にある「岩村酒造」のお酒
「女城主」と「えなのほまれ」です。
戦国時代に織田信長の叔母が岩村城を守ったことに因んで、
女城主という銘柄が誕生したのだそうです。
岐阜「岩村酒造」のお酒が、横内で手に入りますよ。
「慈眼寺」に戻ってきました。
これから本堂にお参りし、またお話を聞きます。
まずは、皆さんで「般若心経」を唱えました。
そしてご焼香をしました。
「慈眼寺」さんにお祀りしている御尊像などを拝見します。
「抱地蔵尊」
「宗吾大明神」
「宗吾」というのは、江戸時代初期、千葉県佐倉の義民「宗吾(惣五郎)」のこと。
佐倉藩二百ヶ村の農民たちが高い年貢に苦しめられており、
いろいろと年貢を下げてもらう訴状を出し訴えるが、聞いてもらえず、
ついに意を決して、惣五郎が将軍へ直訴して、年貢は引き下げられたものの、
直訴は御法度破りの大罪なため、惣五郎と家族は刑に処された。
後に農民の味方「宗吾大明神」としてまつられるようになった。
歌舞伎や浪曲のモチーフにもなって、庶民にも慕われたそう。
こちらの額は、その場面を表したもの。
「佐倉宗五朗 故郷出立の図」だそうです。
どこかで聞いたことのある話だなあと思ったら、
そういえば、2007年に、藤枝市八幡の「日照山耕春院」本堂にて、
「浪曲と講談を楽しむ会」があったのですが、
その時の演目のひとつが、「佐倉義民伝 妻子の別れ」。
語ってくれたのは「天中軒月子さん」。
岐阜県郡上八幡のご出身だというから、やはり繋がっているんですね。
それでは、なぜ、千葉の義民の「宗吾大明神」が、横内にあるのか?という疑問。
明治時代、輸出用の絹の生産が盛んで、養蚕は農家の貴重な現金収入源でしたが、
白髭神社のある村では、祭神猿田彦命(さるたひこのみこと)が、
桑の枝で片目を突いたという言い伝えがあるため、信心の厚い村では、
蚕の餌となる桑を栽培することを遠慮する風習があったそう。
そこで、横内の侠客「塚本角蔵」が農民の味方である
「宗吾大明神」を祀ることで桑の木の栽培が許されることを思いつき、
明治38(1905)年、千葉県佐倉の宗吾霊堂のある「東勝寺」まで出かけ、
尊霊を分けてもらってきたそう。
この方が「塚本角蔵」。
境内には、立派なお墓もあります。
本尊の「阿弥陀如来」
左の「阿弥陀如来座像」は、平安後期の作。
右の「阿弥陀如来立像」は、江戸中期の作。
最後は、「岩村藩」縁のスイーツをいただきます。
「岩村酒造」の「純米あま酒」と、
創業寛政8年「松浦軒本店」の「カステーラ」。
実はこの「カステーラ」岐阜県まで行かなくても、
新東名「藤枝PA」上りの売店で売っています。
なぜかというと、恵那市は藤枝市と姉妹都市ですし、
上りの「藤枝PA」のお店は、岐阜の会社が経営しているからです。
美味しいお菓子をいただきながら伺ったのは、さらなるお宝。
岩村藩出身の教育家・歌人で、女子教育の先覚者、
後に、実践女子学園を創設した「下田歌子」さんの書など。
いろいろ盛りだくさんで、長くなりました。
藤枝市内に、岩村藩の飛地があるという話は聞いたことがあったのですが、
それがどこなのか、どうしてなのか?分かってなかったので、
今回の「みちゆかし」で知ることができてよかったです。
さらに感慨深いお話。
今回のこのプログラムは、「藤枝おんぱく」「みちゆかし」ではおなじみ
「佐野石材」さんが「慈眼寺」さんをご紹介したそうです。
プログラムをすることになって、活躍されたのが「横内歴史研究会」の皆さん。
平成13年に行われた「東海道四〇〇年祭」の時に、
エントリー承認事業として、いろいろ整備されたようです。
その時の名残の看板などがあり、まちあるきを楽しくしてくれました。
今でも毎年、岐阜県恵那市岩村町に出かけて、交流なさっているそうです。
そして、こちら。
「藤枝市横内四百年史 慈眼寺住職 柴田芳憲」
目次の一部はこちら。
この本を書かれたのは、ご住職のお父様の「柴田芳憲」さん。
岡部町の「十輪寺」のご住職でした。
住職の英憲さんは、
今回準備にあたり、お父様が書かれた「藤枝市横内四百年史」を読まれて、
改めてすごい仕事をしたなあと、感心なさったそうです。
残念ながら、今年10月に亡くなられました。
うちの息子が中学の時、国語を習った先生でもあり、
剣道部の副顧問で、お世話になりました。
これも何かのご縁と感じて、「藤枝市横内四百年史」を
譲ってもらいました。
この本に興味のある方は、「慈眼寺」さんにお問い合わせしてみてください。
岐阜県恵那市には、日本三大山城といわれる「岩村城跡」があるそうです。
ちょっと訪ねてみたくなりました。
紹介サイト「城下町 ほっといわむら」は、こちら。
写真は「慈眼寺」のガラス窓。家紋は「丸に八つ矢車」でしょうか?
ご住職、おもてなしをしてくださった奥様、檀家の皆さま、
横内歴史研究会の皆さま、ありがとうございました。
2017-12-09 20:40
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コメント(10)
コメント受付ていますか?
by 村本勝信 (2018-08-13 08:54)
私説代官地蔵と蘿径記碑 大変素晴らしいお写真と記事拝見しました
藤枝の者ではありませんが、両方とも当方の祖先が関係している様です。昨日グーグルで送信するが反応なし、今朝アップルで送信何か通じる様な気がします。機会を見て送ります。
by 村本勝信 (2018-08-13 19:20)
ごきげんぱらぽん3のブログ本当に良くまとめていますね。当方は第1回11月28日の方に参加しました。2年前まで先祖の事などあまり知りませんでした。 除籍の一番上に横内菊川傳蔵の名が有り、祖父が石工でしたので、多分横内の菊川石材と関係あるのではないか?
手紙を出しました所、家系図と墓碑の写真を頂きました。
それからはITの助けにより幕末の頃までは良く分かりました。
曽祖父の母が一人娘なので、本当は菊川の姓なのに村本と名乗って
おります。安永6年代官地蔵の写真を見た時、これは慈眼寺との距離的関係から菊川と関係あるのでは? と思い参加しました。
どうも当方より7代-8代前の者が作ったのではないか? その後の調べで菊川の姓は水守に集中している。 足軽という祖父から伝承もある。田中藩の足軽か?その関係も有り岩村藩のお世話になったのか?
文政の蘿径記碑と地蔵とは約50年の間隔があるが、名文名字の蘿径記碑の作者駿府代官羽倉簡堂(国定忠治を義賊化した人)も幕閣の腹の
さぐり合いで岩村の横内陣屋で聞かされた? よし俺も一石立て見ようかなと思った? 駿府の石屋でなく、横内の菊川の職人し幸右衛門が彫った様だ。店主は曽祖父の祖父菊川傳蔵の様です。この難解な
碑に天下の秀才羽倉と対するのは大変な事だったかも知れない。
by 村本勝信 (2018-08-14 20:18)
村本さま、コメントに気付かなくてすみませんでした。
このところ、Facebookでのコメントの方が気が楽なのか?
ブログへのコメントをなさる方が減って、
代わりにたまにあるコメントは、
不思議なコメントばかりになったので、
設定を受け付けないモードにしておりました。
なのになぜか、村本さまの想いが通じたのか?届きました。
私は、歴史などには疎く、すぐに忘れてしまうので、
参加した時のメモを必死でまとめましたが、
だらだらと長くてすみません。
御先祖のことがいろいろわかってくると楽しいですね。
これからも、頑張って調べてください。
今年の秋にも「みちゆかし」が行われるそうです。
興味のあるプログラムがあったら、ご参加ください。
by ぱらぽん (2018-08-19 23:23)
イヤイヤブログの半年後の投稿ですみません。藤枝の祖先調べも今年
に入り空振り2回ほどもらいました。貴ブログを読み直しました。
島田に居た曽祖父がなぜ藤枝で活躍?不思議に思いました。昨年の
みちゆかしの前に調べると本家の菊川石材主人が明治30年若死 後妻
(言葉悪いが)に入っていた佐野石材の創業者の娘佐野ゑいさんと大変
協力した様子。その佐野さんが受付!!
田中城下屋敷に有る街道比類なき傑作従是西田中領の石碑のナゾ?
維新後明治32年本多の殿様の娘さんの菊川への降嫁?
ナゾですね?地元でなくしかも70も過ぎ大変です。大変良いブログ
ありがとうございました。大切にご保存下さい。
by 村本勝信 (2018-08-20 19:17)
村本さま、佐野さんご夫妻とは仲良くさせてもらっています。
旦那さまは、子供の頃から寺社に出入りなさっているので、
歴史、石碑、野仏などに大変お詳しいです。
またチャンスがありましたら、探求の続きをなさってください。
まだ残暑も厳しいと思われます。どうぞご自愛くださいませ。
by ぱらぽん (2018-08-20 23:49)
1通750円の除籍が宇津ノ谷峠から知らなかった田中城まで、しかも
石屋で彫った遺物も多い。300年前まで遡れるか?また良いブログを
期待します。お元気で御活躍して下さい!!
by 村本勝信 (2018-08-21 07:41)
村本さん、ありがとうございます。
村本さんもお元気で!!
by ぱらぽん (2018-08-21 12:33)
静岡県藤枝市岡部地区では、蜂の子を入れた炊き込み御飯のことを、「はえはちめし」と呼んでいるそうですが、
蜂の子は岩村周辺の郷土料理でもあります。
by いわむら (2019-02-17 18:48)
いわむらさんは、岩村藩にゆかりの方なのですね?
蜂の子は、郷土料理なのですね〜。
by ぱらぽん (2019-03-12 23:07)