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2018.0825(土)史跡めぐり「池谷圭次が案内する長慶寺」 [勝手に応援団]

2018年8月25日(土)10:00〜藤枝市下之郷の「長慶寺」にて、
池谷圭次先生が案内してくださると聞いたので、出かけてみました。

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「長慶寺」に伝わる古文書を読んで、解説してくださいました。
今川義元公が、師匠の太原崇孚(たいげんすうふ)雪斎長老の
遺命を伝える「駿州葉梨長慶寺之事」という古文書でした。

「長慶寺」は、太原崇孚雪斎と今川氏ゆかりの寺で、
当日いただいた資料によると、

長慶寺は、今川三代泰範が開基として開創された寺である。
臨済宗妙心寺派に属し、三号は大楊山、本尊は釈迦牟尼仏である。
草創開山は不明であるが、『駿河記』によると
嘉慶年間(1388)鬼岩寺末の真言宗として開創されたと記されている。
中興開山は太原崇孚(雪斎長老)で、
開基は今川泰範である。
開基の今川泰範は範氏の次男であり、
若い頃は鎌倉建長寺に入り修行していたが、
兄の氏家が若くして没したため還俗して、今川三代を継いだ。
足利義満に仕え、父と共に戦いに明け暮れ、
明徳の乱(1391)応永の乱(1399)で功名をあげ、
駿河と遠江二ヶ国の守護職に任じられた。
泰範の父範氏は文和2年ころ(1353)
駿河の地を治める根拠地として、島田の大津庄に大津城を、
葉梨庄には花倉城を築いた。
この築城に並行して家臣の屋敷を定め、
一族の菩提を弔ったり、男子の教育の場として氏寺を建立した。
花倉には遍照光寺を、下之郷には長慶寺を開創された。
泰範は嘉慶2年(1409)76年の生涯を閉じると、
遺骸は長慶寺に葬られたと言われ、
五輪塔が境内に残っている。
「藤枝・岡部・大井川の寺院」

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今川三代の「泰範」の五輪塔(左)と、
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太原崇孚雪斎のお墓(無縫塔:右)があります。

今川の軍師太原崇孚(雪斎)について、配られた資料より引用させていただきます。

雪斎は、今川家の家臣であった庵原氏の出身である。
9歳で富士の善得寺に入寺した。
今川七代氏親は、我が子、方菊丸(義元)の教育を雪斎のもとに委ねた。
永正6年(1509)14歳で梅岳承芳(今川義元)と共に京都に上り、
建仁寺や妙心寺で修行を積んだのち、再び善得寺に帰山した。
大永6年(1526)今川七代氏親が没したあと、
氏輝が今川八代となった。
ところが、天文5年(1536)3月17日に
氏輝と弟の彦五郎の兄弟が同日没してしまった。
善得寺にいた承芳は還俗して義元と名乗り、
異母兄の良真(玄広恵探)と家督をめぐって争い、
花蔵の乱で勝利を収めた義元が今川九代となった。
雪斎は義元の軍師となり、数多くの戦いに参加して、
今川家を東海の雄として成長させた。
雪斎の姉と言われている、大年尼が廃れていた長慶寺の再考を手がけ、
さらに雪斎の功労で再興を果たした。
この時、真言宗から臨済宗に改宗したという。
長慶寺には、今川康範の五輪塔と共に
雪斎長老の無砲塔が残されている。

そして、本堂の奥の位牌堂には、
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太原崇孚雪斎の像とご位牌があります。
そして、鎌倉時代のものではないかと思われる
観世音菩薩像の仏像もありました。
昭和6年、開山堂建立のため本堂の裏を掘り下げたところ、
金銅製の観音様が発見されたのだそうです。
鎌倉期の仏像の特徴を持っており、
雪斎長老の念持仏ではないかと言われているそうです。

過去に「花蔵の乱探訪ツアー」などで、
何度となく訪れている「長慶寺」ですが、
説明してくださる方が変わると、また趣も違っていて、
大変勉強になりました。

「岡部を恋うる会」の皆さま、ありがとうございました。

2014年に行われた「花蔵の乱探訪ツアー」の際の、
寺社めぐりの様子は、こちらで。
「玄広恵探」ゆかりの「偏照寺(かつては偏照光寺)」には、
今川二代「範氏」とその息子「氏家」(泰範の兄)の五輪塔があります。
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